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糖質制限食とテーラーメイドダイエットに至るまで①
 さて今回は、江部康二の自分史を振り返って、現在の医療観・健康観を持つに至った過程を述べてみようと思います。
 
《少年時代》
  私は1950年(S25年)1月8日(かのエルビス・プレスリ- の生まれた日です。どうりで唄がうまいわけだ!)に京都府の東和束村(奈良の近くでお茶が名産)で生まれました。生後3ヶ月で父の仕事(やはり医師です)の都合で広島県西北部の戸河内町に引っ越しました。 冬になると雪が50~60cmは積もる山奥の農業の町です。

 小学校3年生まで戸河内で暮らしたのですが、基本的には元気な子で麻疹・おたふくかぜ・水ぼうそうなどにも人並にかかり、おまけとしては兄と相撲をとっていて右の鎖骨を2回骨折したくらいのものでした。空気も水もきれいで緑に囲まれ、野山を駆けめぐって育ちました。家の裏の小さな畑では母がささやかながら野菜・いちごなどを育ててました。

 最近今まで以上に食べ物に興味を持ちはじめたので、この頃の食生活を母に聞いたりして思い起こしてみました。 主食は米(1950年代前半までは日本中が飢えていたときですが、農業のおかげで米はたくさんありました)、これに朝は味噌汁と漬物、昼は魚の干物、夜は野菜の煮込み.煮魚か焼き魚といったところが定番でした。卵焼きなどは大ご馳走で運動会とかお祭りの時が主な出番でした。

 牛肉や豚肉や鶏肉は日常的には流通してなくて、肉といえばもっぱら鯨肉が食卓にのぼりました。あのころはくじらが圧倒的に安くて豊富で、私などは<肉= 鯨肉>という公式が頭の中にできあがっていたものです。母の作るクジラカツはおいしかったですね。江部家が特に貧乏だったというわけではなく給食も鯨肉のメニュ-が多かったのですが、独特の臭みがありどう考えても美味しくはありませんでした。その鯨が歳月と共に高級品となり、貴重品となり、さらに御禁制の品となったのですから40年の歴史の重みを感じます。
テーマ:糖尿病
ジャンル:ヘルス・ダイエット
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