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糖質制限食とテーラーメイドダイエットに至るまで⑤
 こんにちは。高雄病院の江部康二です。

 ここのところ、江部康二の自分史が続いているので、「タイトルの『糖質制限食とテーラーメイドダイエットに至るまで』と全然関係ないやんけ~。」とお叱りの声が聞こえてきそうです。
 しかし!自分史を語らずして何ゆえ糖質制限食に至ったかは語れませんので、今しばらくお付き合いのほどを。

 というわけで、今回は自分史<漢方>編です。

<漢方>
 漢方治療を実地で学ぶため、1978年(S53年)4月思い切って大学をやめて兄の勤めている高雄病院で働くことにしました。 居心地がよかったのか腐縁なのか、そのまま今に到るまでずっと居座っています。

 鼻炎のほうは、さすが漢方薬の威力は絶大で積年のくしゃみ・鼻水・鼻づまりがすっかり治ってしまいました・・・・・てなわけにはいかなかったんです。漢方薬を弁証に応じて小青竜湯、葛根湯加川辛夷、辛夷清肺湯、麦門冬湯、麻黄附子細辛湯などその都度服用していれば症状はおおむね取れているのだけど、止めるとまたぶり返し、なかなか根治するにはほど遠い状態でした。

 漢方のほうはビギナーズラックというわけでもないのですが、当初の2・3年は存外好調で、気管支喘息、アトピー性皮膚炎、ネフローゼ症候群、アレルギー性鼻炎(私以外の)、紫班病、生理痛、不妊症などなど・・・かなりうまくいく症例も多く『漢方ってすごいな!』と有頂天になったものです。
 
 ところがどっこい、5.6年が経過しある程度勉強もし経験も積んでいくのですが、患者さんも増え難病も増えていく中で臨床的に壁にぶつかって上手くいかない症例が増えていきました。もちろん漢方を極めたわけでもなく、勉強不足もあります。いろいろ悩みましたが、西洋医学と同様現行の漢方治療(湯液やエキス剤中心の薬物療法)にもおのずと限界はあるはずだと素直に考えてみたりもしてました。

テーマ:糖尿病
ジャンル:ヘルス・ダイエット
糖質制限食とテーラーメイドダイエットに至るまで④
 コカコーラの大瓶を水がわりに毎日ガブガブ飲んだり、お金が無いとインスタント・ラーメンだけで一週間過ごしたり、趣味的に朝・昼・晩と全てお湯を注ぐだけの<カップ-焼きそば・焼き飯・ラーメン >で一日過ごして気分が悪くなったり、サントリーレッドの大瓶や料理用の一升瓶のワインで反吐をはいたりで、なかなかにえぐい食生活をおくってました。当然鼻炎はもはや生活の一部といった存在になってました。

 全国的な全共闘運動の盛り上がりの中で京大でもストライキ が相次ぎ、結局医学部の6年間で授業は半分くらいしかなかったでしょうか。兄も私も全共闘運動に参加し、京大医学部の建物内に立て籠もってストライキもしました。さまざまのほろ苦い思い出と共に、正規の授業では学び得なかっただろう大切なものを得たという思いもあります。

 なお私事で恐縮ですが1972年(S47年)に学生結婚をしてます。食生活は少しはましになったような気もしますけど・・・。

<医師に>
 ともあれ1974年(S49年)大学を卒業し、医師となり京都大学胸部疾患研究所で研修を始めました。胸部疾患ですから、肺癌・肺線維症・気管支拡張症・気管支喘息・肺気腫・.肺結核・肺炎・気胸などが主な病気でした。この中には根治療法の可能なもの、対症療法が主となるもの、 基本的に治療法のないものなどさまざまの病気があります。これらのことを踏まえ、5年間の臨床経験を通じて自分なりに西洋医学の素晴らしさ・長所も納得していきましたが、一方で限界も見えてきました。

 当時<針麻酔>が話題となっていた頃であり、又日中国交回復といった時代の流れもあり世間の漢方に対する評価も徐々に高まりつつあったと想います。こういった中で、私の兄は既に数年間独学で漢方を勉強しており、その影響もうけて、私もついに漢方に首をつっこむ事となったわけです。
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糖質制限食とテーラーメイドダイエットに至るまで③
 余談ですが私はもともと偏食で特に野菜が大嫌いだったのです。食べれるのはタクアンくらいでキャベツは千切りされたものを一本、二本・・・、キュウリはスライスされたものを一枚、二枚・・・といった世界でした。母はコロッケの中にいろんな野菜をいれるなどして何とか私が食べるよう工夫してくれてました。

 偏食はかなりの筋金入りで、牛田小学校の給食を一切食べずハンガ-ストライキを続けたので、とうとう小学校側が根負けして、卒業までの3年間昼食はずっと家に食べに帰ってました。除去食??を小学校に認めさせた日本の第一号は実は私だったのではないでしょうか?

 中学生になり、1年生だったか2年生だったか、とうとうアレルギー性鼻炎が始まりました。洋風の食生活になって約3年が経過していました。今思えば洋風の中でも精製された炭水化物(パン、ケーキ、お菓子、チョコレート・・・)の過剰摂取でした。以後苦節30数年、私の人生はアレルギー性鼻炎との二人三脚でした。 中学.高校とその内に、鼻炎はあって当り前となり、毎朝大量のティッシュペーパー のお世話になってました。<(鼻)水もしたたるいい男>とは僕のためにある言葉かなどと馬鹿なことを思ってました。中学・高校は修道という儒教系の学校で、ルーツは旧広島藩の藩校だったそうです。

<京都時代>
 1968年(S43年)京大医学部に入学して左京区の高野で下宿生活を始めてからは現金なもので生きていくために、それこそあっというまに野菜でもなんでも食べることができるようになりました。
 近くにホルモン屋があったのでよく食べに行きましたが友人や兄との生存競争に打ち勝つべく鍛えられて少々生焼けの肉でも食べることができるようになりました。

 家賃が安くて下宿したのでかなり場末の店ではあったのですが、ある日兄と二人で食事に行ったとき店の親爺が機嫌が良くてサービスにレバーをくれました。ラッキーと喜んで焼き始めたら何やら細長い物体がニョキッと粘膜を突き破って出てきたのにはビックリしました。只ほど高い物はない・・・親爺がくれたレバーには寄生虫(おそらくイヌ蛔虫?)が機嫌良く住んでいたのが熱さに耐えかねて登場したのでしょう。折角もらったものを無碍に捨てるわけにもいかず二人でフリーズしてしまいました。丁度そのとき、とことこと太郎がやって来ました。冷や汗をかきながらこんがりと焼き上げて太郎(店で飼っていた犬です)に分け与えて事なきを得ました。持つべきものは(イヌの)友ですね。
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糖質制限食とテーラーメイドダイエットに至るまで②
前回からの続きです。
 
 牛乳も私が乳幼児のころの戸河内では一般的ではなくて、私は母乳が足らない時山羊の乳をわけてもらって3ヶ月くらい飲んでいたんだそうです。
 果物もすっぱいすっぱい小さなりんご、種ばかりやたら多いぶどうにすいか、そのほか柿、梨、桃、いちご、みかん、いちじく、ぐみ、あけび、などなど四季に応じて旬のものが種類は豊富にあり、おいしかったのですが、食べ過ぎるほどの量はなかったのは確かです。
 バナナなど輸入品は大変な貴重品で親戚でも病気して入院したときにお見舞いにもらったのをわけてもらい、それをさらに1/4に切って弁当に入っていたりするととても嬉しかったのを覚えています。もちろん今はやりのトロピカル・フルーツなど影も形も見あたりませんでした。
 チョコレートやお菓子、ガム、キャラメルも一応あったけど人気はお米をポップコーンのように破裂させて作るぽんがし(10円玉を数個握りしめて自分でお米を持って行って行商のおじさんにつくってもらう)、黒砂糖のお菓子のくろんぼ(紙のくじをなめると当り・はずれの文字が浮きでてきて、当りだともう一本もらえる)のほうがありました。
 当時のいなかのことだから、ケーキやアイスクリームなどをそうそう買って食べるような習慣もなくて、母の手づくりのホット・ケーキとかドーナッツが唯一の楽しみでした。

<広島市時代>
 1959年(S34年)父が広島市内の病院に勤務することになり、小学校4年生になりたての5月、一家4人で市内の牛田という町に引っ越しました。 戸河内に住んでいる頃も時々市内に連れてきてもらい、レストランでメニューの多さに眼を丸くしたものでした。神武景気(朝鮮戦争)、岩戸景気を経て高度経済成長(ベトナム戦争)など日本経済が急速な発展を遂げつつあったこともあり、江部家のライフスタイルも変わっていきました。 
 父が1964年(S39年)に開業してからは江部家の財政もそれなりに裕福になり、ほぼ毎日肉(牛肉・豚肉・鶏肉)、牛乳、卵を食べ、ケーキ・アイスクリーム・シュークリーム・エクレアなどの甘いものや嗜好品も習慣的に取るようになり、食生活も完全に洋風化しました。


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糖質制限食とテーラーメイドダイエットに至るまで①
 さて今回は、江部康二の自分史を振り返って、現在の医療観・健康観を持つに至った過程を述べてみようと思います。
 
《少年時代》
  私は1950年(S25年)1月8日(かのエルビス・プレスリ- の生まれた日です。どうりで唄がうまいわけだ!)に京都府の東和束村(奈良の近くでお茶が名産)で生まれました。生後3ヶ月で父の仕事(やはり医師です)の都合で広島県西北部の戸河内町に引っ越しました。 冬になると雪が50~60cmは積もる山奥の農業の町です。

 小学校3年生まで戸河内で暮らしたのですが、基本的には元気な子で麻疹・おたふくかぜ・水ぼうそうなどにも人並にかかり、おまけとしては兄と相撲をとっていて右の鎖骨を2回骨折したくらいのものでした。空気も水もきれいで緑に囲まれ、野山を駆けめぐって育ちました。家の裏の小さな畑では母がささやかながら野菜・いちごなどを育ててました。

 最近今まで以上に食べ物に興味を持ちはじめたので、この頃の食生活を母に聞いたりして思い起こしてみました。 主食は米(1950年代前半までは日本中が飢えていたときですが、農業のおかげで米はたくさんありました)、これに朝は味噌汁と漬物、昼は魚の干物、夜は野菜の煮込み.煮魚か焼き魚といったところが定番でした。卵焼きなどは大ご馳走で運動会とかお祭りの時が主な出番でした。

 牛肉や豚肉や鶏肉は日常的には流通してなくて、肉といえばもっぱら鯨肉が食卓にのぼりました。あのころはくじらが圧倒的に安くて豊富で、私などは<肉= 鯨肉>という公式が頭の中にできあがっていたものです。母の作るクジラカツはおいしかったですね。江部家が特に貧乏だったというわけではなく給食も鯨肉のメニュ-が多かったのですが、独特の臭みがありどう考えても美味しくはありませんでした。その鯨が歳月と共に高級品となり、貴重品となり、さらに御禁制の品となったのですから40年の歴史の重みを感じます。
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